車のイラスト

● 自動車の歴史 

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● ソアラ

自動車の歴史に先駆け科学の歴史をおさらいして みましょう。

【紀元前】
4000頃  銅の使用(メソポタミア)
3000頃  青銅の使用(メソポタミア)
3000頃  星座の誕生(オリエント)
2800頃  ピラミッド建設がさかん(エジプト)
2000~  青銅器時代(メソポタミアなど)
1100頃  鉄器普及(ギリシアなど)
600頃  サロス周期の発見
6世紀  自然哲学の創始(タレス)
6世紀  最初の世界地図(アナクシマンドロス)
6世紀  ギリシア数学の確立(ピタゴラス)
5世紀  原子論の創説(レウキッポス)
5世紀  古代原子論の完成(デモクリトス)
4世紀  天体の不規則運動(エウドクソス)
4世紀  自然学の確立(アリストテレス)
280頃  月と太陽の大きさの算定、太陽中心説(アリスタルコス)
230頃  地球の大きさ測定(エラトステネス)
250頃  アルキメデスの原理
150頃  月までの距離算定(ヒッパルコス)
150頃  歳差の発見(ヒッパルコス)
100頃  ガラスの吹きづくり法発明
46    ユリウス暦採用

【紀元後】
50    ヘロンの蒸気機関
105頃   紙の製法の改良(蔡倫)
120頃   プトレマイオス「アルマゲスト」、天動説(地球中心説)の確立
3世紀末  ギリシア錬金術の成立
5~6世紀 零の発見(インド)
641    アレキサンドリアの図書館焼失
9世紀~  アラビアで科学が発展
10世紀   天文航法はじまる(アラビア)
10世紀末  幾何光学と生理光学の研究(イブン・アル・ハイタム)
11世紀   火薬が実用化(中国)
11世紀初  イブン・シーナー(アラビア)の活躍
12世紀頃  ヨーロッパで古代科学書の翻訳がさかんになる
1250頃   天文体系の研究(アル・トゥーシー)
14世紀   機械時計の発明(ヨーロッパ)
1440  ポイルバッハ 『アルマゲスト』翻訳
1450  活版印刷術(グーテンベルク)
1471  航海暦の作製(レギオモンターヌス)
1500頃 レオナルド・ダ・ヴィンチが活躍
1530  アグリコラ『レ・メタリカ』
1543  太陽中心説の提唱(コペルニクス)
1583  振り子の等時性の発見(ガリレオ)
1582  グレゴリオ暦採用
1590  顕微鏡の発明(ヤンセン)
1604  落体の法則(ガリレオ)
1608  望遠鏡の発明(リッペルスハイ)
1609  惑星運動の法則(ケプラー、~1618)
1609  望遠鏡による天体を観測(ガリレオ)
1621  光の屈折の法則(スネルの法則)
1632  ガリレオ『天文対話』。地動説を擁護したとして宗教裁判にかけられる。
1643  大気圧の測定(トリチェリ)
1648  パスカルの原理
1654  マグデブルク半球の実験(ゲーリケ)
1655  光のスペクトル実験(ニュートン)
1657  振り子時計の製作(ホイヘンス)
1662  ボイルの法則
1665  フック『ミクログラフィア』を著す。
1666  光のスペクトル発見(ニュートン)
1668  反射望遠鏡の発明(ニュートン)
1669  光の微粒子説(ニュートン)
1673  赤血球の発見(レーウェンフック)
1675  光速測定(レーマー:秒速約22万km)
1678  光の波動説(ホイヘンス)
1687  ニュートン『プリンキピア』(万有引力の法則、運動の3法則)
1703  フロジストン説(シュタール)
1704  ニュートン 『光学』
1705  ニューコメンの蒸気機関

ニューコメンの蒸気機関が出てきた所で、自動車の歴史に先駆けエンジンの話をしましょう。
あれは確か17世紀後半今でも鮮やかに思い出します・・・
最初の蒸気エンジンの発明は、蒸気の熱エネルギーが、鉱山の坑内排水に適用された揚水機がはじめて工業に応用されたニューコメンの蒸気機関エンジンです。
その後イギリスは石炭の需要が増大し炭鉱を掘り進むにつれ湧き出す地下水を排水するための燃料が膨大になり、採炭の採算がとれなくなっていた。ニューコメ ンのエンジンでは熱効率が悪く1763年発明されたワットのエンジンを使いたいのだが、ワットに支払うパテント料が大きく、コーニッシュビームエンジンを 開発、ウィックスティードやリチャード・トレヴィシックといった技師たちがそれまでのエンジンに改を加えて発展させたもので、その実用性と効率の良さか ら、鉱山の排水だけでなく給水システムや織物機械など、あらゆるポンプシステムに応用された。
1814年最初の機関車ブラッチャー号を発明。
改良を重ねてレールの使用を思いつき、1825年ストックトンとダーリントン間にアクチブ号、
1829年リバプールとマンチェスター間にロケット号を走らせた。
1830年マンチェスター・リヴァプール間開通、1850年代末鉄道網ほぼ完成。

1876年自動車史において画期的な「4サイクルエンジンの発明」(オットー)が登場する。

自動車が発明された年は、世界的な認識では、カール・ベンツが最初の自動車である三輪車を完成させた1885年とされている。そのときにはまだ4サイク ルエンジンに関するニコラス・オットーの特許が有効で、特許侵害に当たったため。オットーの特許が無効になった後に、ベンツが自動車に関する特許を申請し たのが1886年、同じ年にゴッドリープ・ダイムラーがガソリン4輪車を完成させている。
1893  ディーゼルエンジンの発明
1894年7月22日、パリ・マイヨー街のスタート地点に出走車21台が揃い、パリ~ルーアン・トライアルレースがスタートした。世界で最初の自動車レー スとされるこのレースは、ルーアンまでの126キロを12時間以内で完走することが決められていた。出走した車のパワーユニットは、蒸気またはガソリン・ エンジン。第1位は、プジョーとパナールだった。実際は、ド・ディオン蒸気トラクターが先頭でゴールインしたが、操縦に2名を要したため、2位と判定され た。完走できなかったのは4台で、すべて蒸気車だった。こうしたことから、蒸気エンジンに対するガソリン・エンジンの優位が、人々にしだいに認識されてい くようになったという。ド・ディオン・ブートン社もこの
時期にすでにガソリンエンジンの自動車を製作していた。

日本では国産ガスエンジンの試作(1892年・明25年・東京工業学校製作)や、石油発動機の試作(
1896年・明治29年・池貝鉄工所製作)が行なわれていた
1896(明治29)年1月19日 明治の農業思想家、十文字信介氏はドイツで発明され、史上初めて量産されたモトラッド(モーターサイクル)を、即座に 日本に輸入し、皇居前広場で公開試験が行なった。彼はガソリンエンジンを使った乗り物に注目し、将来性を理解していた。まだ「自動車」という概念の無かっ た日本に到着した乗り物は、「一人乗りの汽車」と人々はその速度に驚愕した。
1898(明治31)年2月7日 四輪自動車走行 デフネ(フランス人商人)が東京に持ち込んだガソリン式自動車「パナール・ルバッソール」は、買い手が なかったが、築地~上野間をデモ走行したと言われている。

1898(明31)年(推定) 日本最初の二輪自動車組立が柴義彦によって行われたとされる。1901という説もある。

1900年に開催された第1回ゴードン・ベ ネット杯レースは世界初の国際レースで、アメリカのジェームズ・ゴードン・ベネットの提案によるもので、運営 はフランス自動車クラブ。このレースでは、これまでのメーカー間の戦いから、ナショナル・カラー(フランス:青、イギリス:緑、ドイツ:白、アメリカ: 赤、ベルギー:黄)を施したクルマによる国家の威信をかかげたレースへと変化を遂げた。各国の技術が競われ国威発揚が目指された。

日本のモーターレース元年は1901年(明治34)11月3日、2輪、3輪、4輪、の3台のガソリン車が上野公園不忍池を周回したこの日のレースは、正確 なタイムが計測、新聞各紙に報道されていた。

明治37(1904)年5月に国産自動車の誕生と言われていますが、国産第一号はどう言う物なのかは明確ではないのです。1905年のエンジンは米国製な がら双輪商会の吉田式乗合自動車(ガソリン式)吉田眞太郎氏作・1904年の山羽式乗合自動車(蒸気式)が史実に残っている最古ではないかと思われます。

20世紀に入ると、200キロ突破のスピード記録への挑戦がはじまった。ゴッドリープ・ダイムラーと並んで近代自動車の父と言われるカール・ベンツは、排 気量2万1504ccの直4型エンジンを搭載したブリッツェン(電光)ベンツを完成。1909年イギリスのブルックランズのサーキットで202.691キ ロを記録し史上初めて200キロの壁を破った。

明治35年(1902年)イギリス・ブルックランズやイタリアのレースに出場し、数々の記録を作った大倉喜七郎は、日本自動車会社の社長でもあった。その 彼は、明治43年(1910年)12月に常務委員長に就任、日本自動車倶楽部設、日本自動車倶楽部は自動車業界における有力な圧力団体になり、たとえば、 自動車税の課税基準として馬力数を採用することが決まったが、日本自動車倶楽部がこの決定権を握り、課税馬力を制定。この馬力課税方式が出来るまでは、自 転車と自動車が同じ税額
という時代。

1910年(明治43)井上馨氏の援助で戸畑鋳物株式会社を設立。
1911(明治44)橋本増治郎氏が東京・浅草に快進社自動車工場を設立。
1914年(大正3) 橋本氏が設計・製造した箱形自動車が完成し、翌年から発売を開始する。
試作2号車を、3月20日東京・上野公園で開かれた大正博覧会に出品。
1915年(大正4) DAT CAR(脱兎号)販売開始。
※D:田健次郎/A:青山禄郎/T:竹内明太郎(各人とも快進社の出資者)
1919年(大正8) 大阪で久保田権四郎氏が実用自動車製造株式会社を設立。ウィリアム・R・ゴルハム氏設計の三輪車を製造。 1926年(T15) 快進社と実用自動車製造が合併。車名をダット自動車製造とした。
1920年(大正9)久原房之助氏より久原グループの経営を引継ぐ。
大正14年(1925年)12月、純国産車で本格的生産車の1週間不眠不休で製作した9馬力のオートモ号レーサーが唯一の国産車として欧米車と競うため 「東京州崎レース」に出場。予選1位、決勝戦は2位を飾った。12月13日付け「The Japan Advertiser」紙に、「小さな日本製の小馬力の自動車が予選で1位、決勝で2位という成績を上げた」との記事が載った。このレースは、ホール・ス コット(200馬力)、カーチス(160馬力)、ダイムラー(100馬力)、キャデラック(32馬力)、ローバー(20馬力)等全12台の出力がバラバラ な車が参加し、ほとんどが20馬力以上のクルマだった。決勝で優勝したカーチス車はアート商会の榊原氏が運転し、助手は大正11年にアート商会に入社した 本田宗一郎だった。

19世紀末。舗装されていない道を、土煙をあげながら屋根もフロント・グラスもなく走っていた。
完全防備の服装にサングラス、ゴーグルが必需品だった。クルマにも屋根と窓が必要と屋根を付けたのは英国人ハーバート・オースチンだ。1922年発表の オースチン・セブン・チャミーに雨天用のワイパーを付けたイタリアのムッソリーニが、自動車レースのミッレ・ミリア(1000マイル)レースにゴーサイン を出したのは1923年。イタリアを熱狂させ、社会の機能すら麻痺させる危険のあるこのレース開催は、彼独自の政治的判断があった。当時、自動車レースは 国の威信をかけた国威発揚の場となっていた。1920年代からアルファ・ロメオ社を、ムッソリーニは1933年、国有化。アルファ・ロメオはイタリアを代 表して戦い、ファシスト国家の名誉のために存在するようになった。
ムッソリーニは、重要なレースが開催される時には「イタリアのためにレースに勝て!」とアルファ・ロメオチームのエンツオ・フェラーリ監督に電報を送るの を常としたという。このバックアップはアルファ・ロメオを飛躍的に進歩させ、後の6C1750や8C2300などが生まれるもとになった。
さて国内に目を移すと1928年(昭和3)久原鉱業を日本産業株式会社と改称。社長に就任、日産コンツェルンを形成。
戦後は参議院議員、日本中小企業政治連盟総裁をつとめた。
1930年(昭和5年) (株)豊田自動織機製作所は自動車研究にひそかに着手(小型エンジン試作、自動車に関する調査活動)
1931年(昭和6)8月 ダット自動車製造は、DATSON(ダットソン)生産開始。
※DATSONは、DAT CARの息子の意味。
10月東洋工業株式会社3輪トラック生産開始(マツダ)販売は三菱
1932年(昭和7)3月 DATSONをDATSUN(ダットサン)に変更。(10型ダットサン)
※SONは”損”にも通じるため、太陽SUNに変更。
1933年(昭和8)6月 戸畑鋳物株式会社はダット自動車製造を吸収してダットサンの製造権を手に入れる。
1933年(昭和8年) (株)豊田自動織機製作所に自動車部を設置
1933年(昭和8)12月26日日産自動車のルーツに当たる自動車製造株式会社が横浜で設立された。
資本金1000万円。この会社は、戸畑鋳物株式会社と日本産業株式会社の共同出資で設立された。代表取締役に就任したのは鮎川義介氏で、日産コンツェルン の総師であった。
※鮎川義介(あいかわよしすけ) 明治13年11月6日~昭和42年2月13日。山口県出身。
東京帝大工科大学卒。芝浦製作所に見習いで入社。
1934年(S9)5月横浜市神奈川区に横浜工場完成。月産150台で生産を開始した。
1934年(昭和9) (株)豊田自動織機制作所が自動車事業進出を決定
1934年(昭和9)6月ダットサンの製造・販売権を手に入れた自動車製造株式会社が、社名を日産自動車株式会社と改称する。また「ダットサン」がアジア などへ輸出される。
1935年(昭和10)4月 ダットサン、横浜工場から出荷。 参考資料 1935年(S10)7月 ダットサントラック(10T)販売開始。
1935年(昭和10) (株)豊田自動織機制作所は、A1型試作乗用車完成 G1型トラック完成 A1型試作乗用車とG1型トラックの総合運行テスト実施 日の出モータース(株)トヨダ社の販売店になりG1型トラック発売(現・愛知トヨタ自動車(株) ’39年頃には、全国規模の販売店網を形成) 挙母町に自動車工場取得
1936年(昭和11) (株)豊田自動織機製作所刈谷組立工場操業開始(喜一郎「ジャスト・イン・タイム」提唱) ’34年に操業開始した試作工場から一キロ離れたところに、車体加工から最終組み付けに至る工場群を建設 (株)豊田自動織機製作所は、自動車製造事業法の許可会社に指定される 自動車研究所(東京・芝浦) 「国産トヨダ大衆車完成記念博覧会」を開催し、5台のトヨダ車を発売
トヨダマーク公募により制定(翌月、製品名を「トヨダ号」から「トヨタ号」に改称) トヨダAA型乗用車、AB型フェートン、GA型トラックを発売 トヨタ金融(現豊田通商) 巡回サービス活動を開始
1937年(昭和12)”ニッサン1号車”が完成。3670直6エンジンを搭載し、アメリカの高級車を意識した
デザインだった。85PS/3400rpm。しかし、第二次世界大戦の影響で1939年に生産が中止された。
1937年(昭和12) トヨタ自動車工業(株)設立(社長:利三郎、副社長:喜一郎)
1946年(昭和21) 本田技術研究所設立、内燃機関、機械の研究、製造を開始。
1939年(昭和14) トヨタAE型乗用車完成(12月、公募により名称は新日本号に。’41年より生産開始)
1954年(昭和29)新生産管理方式:「スーパーマーケット方式」(後のトヨタ生産方式)の採用
1955年(昭和30) トヨペット・クラウン発売
1957年(昭和32)4月 プリンススカイライン(ALSI)販売開始。
1958年(昭和33)スバル360
1961年(昭和36) 本田宗一郎氏自ら研究部門の陣頭指揮を取り、二輪車の世界グランプリレースを制覇。
1962年(昭和37)10月 ダットサンフェアレディ(SP310)販売開始。
1964年(昭和39)F1に挑戦、V型12気筒1,500CCと我が国初のレーサーを完成させる。
1965年(昭和40)トヨタスポーツ800(UP15型)発売
1966年(昭和41) ホンダ グランプリレースで5種目で史上初の完全制覇達成。
1967年(昭和42)性能・スタイリングとも国際レベルから見ても決してひけをとらないスポーツカー
ロータリーエンジン搭載車、「コスモスポーツ」とトヨタ2000GTの発売。2000GTはエンジン開発はヤマハ、ボディもヤマハの手になる手造りの逸 品。発表から発売までの間に挑戦した世界速度記録樹立をはじめ、モータースポーツでは国内はもちろん、海外でもシェルビー・アメリカンの手でSCCA-C プロダクションレースを戦ったことがある。映画「007は二度死ぬ」にボンドカーとして登場したことでも有名。
マツダはのロータリーエンジン搭載車、「コスモスポーツ」発売
1978 3月 初代「サバンナRX-7」発売
1985 9月 2代目「サバンナRX-7」発売
1989 (平成1) 本田宗一郎氏日本人として初めて米国の自動車殿堂入りをはたす。
1991 3代目「RX-7」発売
1991年(平成3) 本田宗一郎氏8月5日 逝去。(享年84歳と8ヶ月)

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